4783340 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

天の王朝

天の王朝

誰がケネディを殺したか2

誰がケネディを殺したか17

▼密約
 ダウニングの調査によると、1960年、キューバ人の反カストロ分子であるマリオ・ガルシア・コーリー(メモ16参照)が、CIAの協力を得て反カストロの右派活動組織「キューバ解放連合」を結成。コーリーの地下組織が、キューバがミサイル基地の建設を進めているとの情報をCIAにもたらす一方、コーリーは、自分の組織を暫定政権と認めるよう米政府に働き掛けた。この計画が米国家安全保障会議の目にとまり、同年10月、当時ホワイトハウスでCIA活動担当だったニクソン副大統領とキャベルCIA副長官、それにコーリーによる3者会談がワシントン郊外の「バーニング・ツリー・クラブ」というゴルフ場で実現した(メモ17参照)。

その会談で、CIAの支援を受けた反カストロの亡命キューバ人部隊が、カストロ打倒のためキューバに上陸、上陸作戦が成功した場合は、反カストロキューバ人部隊の中の左派系指導者は抹殺し、米国は右派系のコーリーをキューバ大統領と認めることに合意した。これが、後のピッグス湾事件への布石となった。

 ところが同年11月の大統領選でニクソンは敗退。新大統領となるケネディは11月の引き継ぎで、反カストロ分子が米国で戦闘訓練を受けているとの説明は受けたが、ニクソンら3者による密約は知らされなかった。

 61年1月に大統領に就任したケネディは当初、CIAによるキューバ侵攻作戦を認めなかったが、アラン・ダレスCIA長官の「今なら成功する」という忠告を信じ、ついに同年4月、3者の密約を知らないまま、キューバ侵攻作戦を実行することを容認。反カストロ亡命キューバ人の部隊はピッグス湾に上陸した。ところがケネディは、おそらくニクソンが大統領だったら実行したであろう米軍による空や海からの支援(メモ18参照)を延期、結局、作戦は大失敗に終わった。
(続く)

(メモ16=マリオ・ガルシア・コーリー)
 コーリーの素性は亡命キューバ人反カストロ分子の右派リーダーであるということ以外には、一般にあまりよく知られていない。
 ロバート・マローによると、カストロ政権が誕生する以前、コーリーは裕福な企業家兼銀行家で、後に殺された友人のエラディオ・デル・ヴァレ(マローの著作「裏切り」の中では偽名で登場)とともにキューバで政治活動をしていた。コーリーの父はスペイン大使まで務めた。加えてコーリーは、カストロ政権後もキューバに残った地下組織4万5000人を統括するとともに、米国にある115の反カストロ活動グループをとりまとめていた。これらを合わせると、コーリーは反カストロキューバ人の最大グループのリーダーで、マローの言葉を借りれば「事実上の亡命キューバ政府大統領」だったことになる。
コーリーは75年8月5日に死亡するが、その約4週間前にテープに自分の最後の主張を吹き込んでいる。その中でコーリーは、ピッグス湾事件で第二次援護爆撃を取りやめたケネディの“裏切り行為”に対する怒りと当時のケネディ自身に対する不信感を吐露している。同時に、空爆停止を一早く伝えてくれ、結果的にコーリーの部隊の投入を思いとどまらせてくれた元上院議員、オーエン・ブルースターに感謝している。
 これでは、まるでケネディ暗殺の動機を説明しているかのようだが、不思議なことにコーリーは、ケネディの死に責任があるのはあくまでもカストロであると結んでいる。トマス・ダウニングはこの発言について、キューバの反カストロ分子がケネディ暗殺に関与したことを隠すための“煙幕”であると分析している。あるいは、長年の友人だったエラディオ・デル・ヴァレまで殺されたことに恐れをなして、死の床までカストロがやったと言い続けたのかもしれない。

(メモ17=ニクソンとコーリーによる密談)
 この60年10月の密約の存在について、ニクソンとCIAが公式に認めたことはない。しかし、コーリーの息子、マリオ・ガルシア・コーリー・ジュニアとCIA工作員のロバート・マローは、それぞれコーリーから直接、ニクソンとの間で密約が成立したことを聞いており、その旨の宣誓供述書を書いている。
 まず、76年7月15日の息子の宣誓供述書によると、60年10月、ワシントンDCにいた父コーリーがマイアミ滞在中の息子に対し電話で、当時の副大統領ニクソンが、CIAの手で訓練された亡命キューバ人の反カストロ部隊がキューバ侵略に成功した暁には、左派系のキューバ革命前線のリーダーは抹殺することに同意した、と伝えてきた。この約束は、もし父コーリーがキューバ侵攻の際、キューバにいる父の地下組織の人間を動員し、かつエスカンブリー山中に潜む父の300-400人のゲリラ部隊を投入することが条件だった、としている。
 76年7月19日のマローの宣誓供述書によると、60年10月の第3週、コーリーと一緒にいるときに、コーリーが1週間前にニクソン副大統領と会ったと知らされた。その会合で、CIAの手で訓練されたキューバ人の反カストロ部隊がキューバ侵略に成功し次第、コーリーが速やかにキューバの政権をとれるよう、ミロ・カルドナや左翼のキューバ革命前線のリーダー全員を抹殺することでニクソンと合意した、という。コーリーはさらに、マニュエル・アータイムズ(編注:CIAのカストロ暗殺計画に関与した反カストロ分子のリーダー)やその仲間も、上陸作戦が完遂すれば殺されることになっており、残りの革命前線のリーダーたちも、コーリーのゲリラ部隊が侵略作戦に参加するか、侵略が成功した時点でCIAに捕らえられ、始末するためにコーリーに引き渡されることになっているとマローに語った。後日、ピッグス湾作戦が始まった61年4月17日、マローはCIAの担当情報部員、トレイシー・バーンズからキューバ革命前線の連中が侵略の結果が分かるまで独房に監禁されていることを知らされた。その時「やつらは殺されるのだな」と思ったという。
 マローによると、この密談によって、後で説明するCIA諜報員ハワード・ハントや女性スパイ、マリタ・ロレンツがかかわる暗殺集団「オペレーション40」が発足する。

(メモ18=CIAが約束した空爆)
 ピッグス湾事件の際、米国政府がキューバに侵攻する反カストロ分子に対して、果たしてどこまでの軍事的支援を約束していたかは、はっきりしていない。リチャード・ニクソンの自伝には、ケネディが、政権内部の空爆反対派とCIAの空爆強硬派の間をとって3回爆撃する計画のうち2回をキャンセルしたとの記述がある。このことから、CIA内部では、作戦遂行に当たって、少なくとも3回は大規模援護爆撃をする計画だったことがうかがえる。
 ジャーナリスト、クリストファー・マシューズの著作「ケネディとニクソン」(タッチストーン社、1997年)によると、CIAのピッグス湾事件担当の情報部員、ハワード・ハント(編注:後のウォーター事件の盗聴にも関係した疑惑の人物)らは、ピッグス湾事件に参加するキューバの反カストロ分子から、どうやったらキューバに上陸する少数の部隊がカストロの20万人もの大軍に対して戦えるというのかと聞かれ、空からの援護爆撃であらゆるキューバ軍の戦闘車両や戦闘機を戦闘不能にするから大丈夫だと保証していた。ハントは「すべてが援護爆撃があるという前提で計画されていた」と主張していたが、不幸にも、その保証は米政府首脳から来ているものではなかった。そのため、ケネディがピッグス湾事件で第二次空爆を躊躇しているとき、ハントらはCIAの戦争会議室で、早く空爆するよう、激しいののしりの言葉を発していた、という。
ここで言えることは、CIAが独断で確約した空爆をケネディが実行しなかったにせよ、少なくとも反カストロ分子からみれば、ケネディの第二次空爆延期は、裏切り行為以外のなにものでもなかった、ということだ。元上院議員から空爆停止の連絡を受け、すぐにマイアミの息子を通じて暗号で自分のゲリラ部隊に作戦中止を伝えたコーリーにしてみれば、危うく自分が統制している4万人以上もの地下組織の人間を失うところだった。この時点でケネディは、マローがいうように裏切り者になったのだ。

誰がケネディを殺したか18

▼暴走
 ピッグス湾事件でケネディに“裏切られた”CIAの強硬派とコーリーは、今度は偽札をキューバ経済に持ち込み、経済的混乱をキューバ経済にもたらすと同時に、偽札でカストロの部隊を買収するという、カストロ政権転覆計画をスタートさせた。しかし、ここでもケネディの邪魔が入る。62年10月のミサイル危機後、対カストロ政権融和政策の可能性を模索していたケネディが、その政策の障害となるCIA・反カストロ分子の非合法活動の取り締まりを強化し始めたからだ。加えて、62年10月のミサイル危機後も、実はキューバはミサイルを撤去していない(メモ19参照)というCIA・コーリー情報もケネディに無視され、ケネディとCIA・コーリー非合法活動グループの間に、修復できない決定的な亀裂が入る。

 そして、63年10月、ケネディが反カストロキューバ人による非合法活動一斉摘発の一環として、コーリーとCIAの非合法協力員、ロバート・モロー(メモ20参照)の二人を通貨偽造容疑などで逮捕に踏み切ると、CIAの支援を受けていたコーリーらの非合法活動グループが暴走。犯行がばれないようオズワルドを使ってカストロの犯行のようにみせかけ、ケネディを暗殺した。カストロがケネディ暗殺の背後にいると分かれば、タカ派のジョンソンならキューバ侵攻を実行に移すと計算したのだ。

 以上が、ダウニングの衝撃的な調査報告であった。ダウニングは、この情報の大半を元CIA工作員のロバート・マローから得ている。まさにカストロ政権転覆計画に携わった当事者から聞き出しているのだ。
(続く)

(メモ19=撤去されなかったミサイル)
 もし、キューバ危機後もキューバからミサイルが撤去されていなかったとしたら、これはこれまでの歴史を書き換えなければならない一大事だ。フルシチョフにミサイル撤去を発表させることによって自由世界のヒーローになったケネディの面目が丸つぶれになるからだ。当然ながら、公式文書の中には、このことを裏付ける確定的な証拠はない。
 ところが、ロバート・マローによると、少なくとも67年まで、もしかしたらその後も、ミサイルは取り除かれていなかった可能性が強い。しかも、マリオ・ガルシア・コーリーが自分の地下組織から得た情報として、キューバ危機後もミサイルがキューバに隠されていることをロバート・ケネディ司法長官に示唆したところ、逆にコーリーはケネディ政権からにらまれるようになった、という。
 マローは76年5月、キューバ生まれのキューバ問題専門家で、キューバ国立戦争大学(1946-52年)や米フロリダ大学(1960年代)、米国国立戦争大学(年代不明)で教鞭をとったことのあるエルメニーノ・ポーテルヴィラ博士にインタビューし、次のようなやりとりをしている。
 マロー:中長距離ミサイルは62年の10月危機後に取り除かれたと思うか?
 ポ博士:いや、取り除かれていない。いざというときのために、まだ隠され、保存されているはずだ。(略)ここにフルシチョフがミサイルについて最高ソビエト会議で述べた64年のスペイン語版の議事録がある。フルシチョフは「我々はそこにミサイルを持っているし、持ち続けるつもりだ。取り除かれたという証としていくつかは手元に持っている」と述べたのだ。
(中略)
 マロー:ニクソンが大統領になったとき、ミサイルがキューバに残っていることを知らされたと思うか?
 ポ博士:推測するに、米政府はこのことを前から知っていたから、ニクソンは知らされてしかるべきだ。ただ、問題はこの種の情報を明らかにすることは厳しく禁じられていた。ケネディによって禁じられ、その後ジョンソン政権でも極秘扱いされた。(中略)・・・とにかく国家にとって非常に重要な事柄だから、米国民にも長年知らされず、隠されてきたのだ。
 このほかマローは、英国軍事筋の情報として、ソ連がミサイルをキューバから撤去するために寄港した船は、ミサイルの寸法や重さ、船のバラストや排水量から計算してミサイルを積み込まなかった可能性が強いことなどを挙げ、ソ連とキューバはミサイルの撤去を実施しなかった、としている。
 ピッグス湾事件のCIAの首謀者の一人で、ウォーターゲート事件でも暗躍したハワード・ハントが、ニクソン大統領の部下、チャールズ・コルソンに「(キューバの件に関連して)もし真実が知れたら、ケネディの名声は地に落ちるだろう」と言ったのは、このことと関係があるのかもしれない。

(メモ20=ロバート・マロー)
 反カストロ右派のマリオ・ガルシア・コーリーによる非合法活動の一部を請け負ったCIAの工作員。元々は電気技師で、キューバペソの偽造でコーリーとともに捕まり、服役した後、72年には共和党候補として議会に立候補した。しかし、ニクソン陣営から資金援助を受けられなかったこともあり落選。76年には「裏切り」という本を出版。その中で、60年のニクソンとコーリーの密約をばらした上で、ケネディ暗殺の責任はCIAとコーリーの非合法活動部隊にあると結論づけている。
 筆者は、トマス・ダウニングを通じてマローとのインタビューを試みたが、結局接触できなかった。マローは自分自身が命を狙われている恐れがあるため、非常に用心深く、どこに行くときでも「9ミリ・ウォウザー」(ピストルの種類)を背広の下の脇の下のところに携帯、しばしそのことを吹聴することで自分の身を守っている、という。

誰がケネディを殺したか19

▼インタビュー
このように重要な報告書がなぜあまり知られていないのか。私は1999年、この報告書を作成したダウニングを訪ね、報告書を書いた背景やなぜダウニングの陰謀説が埋没してしまったかについて聞いた。ダウニングは政界から引退し、ワシントンDCから車で3時間ほど南に走ったところにある港町、バージニア州ニューポート・ニューズの法律事務所に席を置いていた。

気難しい人かな、との不安もあったが、合ってみると非常に気さくな人であった。なぜ日本人の私がケネディ事件に興味をもつようになったのか、など逆に質問をしてきた。私がそれまでのいきさつを話すと、ダウニングも興味を示し、インタビューの最後には、ケネディ暗殺事件の真相を明かすように逆に励まされてしまった。

そのときのインタビューの主な内容は次のとおりだ。

ーあの報告書を書いたきっかけは。
 事件の一部始終をとらえたエイブラハム・ザプルーダーのフィルム(メモ21参照)を詳しく調べたところ、ケネディに向け実は3発ではなく、4発の銃弾が撃たれていることを確信したからだ。しかもうち一発は、明らかにオズワルドのいた後方からではなく、前方から撃たれていた。オズワルド一人の犯行とは到底、考えられなかった。そこでケネディ暗殺事件の再調査を議会に働き掛けるために、あの報告書を76年に書いたのだ。

ー議会の反応はどうだったか。
 当時、ケネディ暗殺の再調査などは税金の無駄使いだ、とする批判の声が強かった。あのままでは、おそらく議会調査委員会を結成することはできなかっただろう、しかし、同様に陰謀の嫌疑があったマーチン・ルーサー・キングの暗殺も再調査するということで議会内の雰囲気ががらっと変わり、暗殺に関する下院の調査委員会(下院特別委員会)が結成されたのだ。そして、私が初代委員長になった。

ー調査結果についてどう思ったか。
 私が途中、議員引退のため委員長職を降りなければならなくなるなど人事でごたごたがあったが、特別委員会はきっと陰謀を解明してくれると思っていた。事実、調査団のほとんどが陰謀の可能性を信じていたのだ。にもかかわらず、79年の報告書は、今一つ踏み込みが足らず、失望した。はぐらかされた感じだった。

ー今でもCIA・コーリー非合法活動グループがやったと思うか。
 CIAが支援していた亡命キューバ人の反カストロ分子のだれかが関与したのは間違いないと思っている。おそらくコーリーと密接に関係する者の仕業だろう。ただ、CIAがケネディ暗殺に直接関与したなどとは考えられないし、考えたくもないというのが本音だ。

 ダウニングは、CIAが自分の国の大統領を暗殺するほど腐敗・堕落していなかったはずだ、との信念を持っている。しかし、オズワルドを犯人に仕立て上げ、しかもカストロ信奉者のようにみせかける手の込んだ工作をCIAの協力なしに実行するのは、まず不可能だ。CIAの中の反ケネディ派が暗殺に協力したとみる方が理にかなっている。
(続く)

(メモ21=ザプルーダーのフィルム)
 アマチュア写真家、エイブラハム・ザップルーダーがたまたま撮った映画フィルムは、ケネディ暗殺の一部始終を捉えていた。銃声が聞こえる度にザップルーダーは驚き、映像もぶれる。それでも彼は、最後までフィルムを回し続け、貴重な証拠を残した。
 フィルムの中で、ケネディは最初の一撃を受けたとき、喉を押さえる。そしてケネディが致命的な一撃を頭に受けた瞬間には、頭は後ろに跳ね返り、車の後方にはケネディの頭蓋骨の一部や血が飛び散るのが見える。ザップルーダー自身も、弾は自分の後方、すなわち、ケネディが乗った車の前方に位置する草の多い小丘から撃たれたと証言している。

誰がケネディを殺したか20

再び話が複雑になってきたようなので、今日はまとめです。
▼まとめ2

CIAの反ケネディ派
・キューバのカストロ政権を打倒するため、亡命キューバ人を使った極秘上陸作戦を計画した。
・一九六〇年の大統領選で勝利するとみられたリチャード・ニクソン副大統領との間で、キューバのカストロ政権打倒の密約をする。
・密約では、侵攻作戦が成功した場合はコーリーという亡命キューバ人を暫定大統領に就任させ、その他都合の悪いキューバ人指導者は抹殺することが確認された。
・同時にニクソンが大統領に就任した暁には、侵攻作戦を直ちに実行し、必要な空爆など軍事支援をすることを確約。
・ところが大統領選ではケネディが勝利。CIAはニクソンとの密約のことは一切知らせず、キューバ侵攻作戦を説明する。
・ケネディ大統領から空爆などの軍事支援を取り付けることができず、侵攻作戦(ピッグス湾事件)は大失敗に終わり、首脳陣は解任される。
・大統領の命令に反して、極秘にカストロ暗殺計画と偽通貨を使ったキューバ経済破壊作戦を進める。
・ミサイル危機後もキューバからミサイルが撤去されていないという情報を入手するが、ケネディ政権から無視される。
・国家安全保障上、ケネディの外交政策を危惧する。

ケネディ大統領
・大統領就任直後、CIAから「絶対うまくいく」というキューバ侵攻作戦について説明を受ける。ただし、密約については知らされず。
・キューバ侵攻にゴーサインを出すが、CIAから要請された空爆は、国際世論に配慮して限定的な作戦にとどめる。
・作戦の失敗に激怒し、CIAの粛清を始める。
・カストロ暗殺計画や偽通貨作戦があることを知り、中止を命令する。
・ミサイル危機後はカストロ政権との融和政策を模索する。
・ミサイル危機後もミサイルが撤去されていなかったとの報告を、政治的な理由から無視する。
・CIAの通貨偽造作戦にかかわったグループを摘発。

亡命キューバ人(反カストロ)
・ピッグス湾事件でケネディが空爆で援護しなかったことを裏切り行為だとみなす。
・CIAの通貨偽造作戦にかかわったグループが摘発され、ケネディに対する憎悪が増大。
・ミサイル危機後もミサイルが撤去されなかったという情報をケネディ政権に無視され、このままではカストロ政権を転覆できなくなるとしてケネディ暗殺を決意。

トマス・ダウニング(下院議員、下院調査特別委員会初代委員長)
・ザプルーダーが撮影した影像を見て、オズワルドの単独犯行はありえないと確信。
・ケネディ暗殺の背景にはニクソンと亡命キューバ人、CIAの密約があったことに気づく。
・下院にケネディ暗殺などを調査する調査特別委員会を設置することに成功。
・ケネディに裏切られたと思った亡命キューバ人のグループがケネディを暗殺したと結論づける。
・ケネディ暗殺の調査特別委員会委員長を辞した後、委員会の報告は陰謀説を事実上排除するなど歯切れの悪い内容になったと失望している。
(続く)

誰がケネディを殺したか21
▼PRマン
 ケネディ暗殺直後から、ケネディを殺したのはカストロであると信じたジャック・アンダーソンのその後についても触れておこう。1967年にカストロ陰謀説を記事にした後もアンダーソンの取材は続いた。

 アンダーソンの取材対象は、政府高官から実行部隊とみられるマフィアに及んだ。ところが、1960年代から70年代にかけて、ケネディ暗殺事件に何らかの形で関係したとみられるマフィアは何人も殺された。

その中でも、特にジャック・アンダーソンが事件の中心人物だとみて接触していたのが、ジョニー・ロセッリだ。ロセッリはラスベガスを拠点とするマフィアで、CIAのカストロ暗殺計画に1960年ごろからかかわっていた。ロセッリは、マフィアがジャック・ルビーにオズワルドを殺させた可能性が強いことや、ケネディ暗殺事件にはカストロの影がちらついている、とアンダーソンに打ち明けた。

しかし76年7月、ロセッリは何者かに殺され、足を切断された状態でドラム缶に詰められ、マイアミ沖で浮いているところを発見された。CIAとマフィアの関係をしゃべりすぎたために、殺されたとみられている。

 ロセッリとは別にアンダーソンが信頼していたもう一人の情報源は、CIA工作員で後にウォーターゲート事件で逮捕されるフランク・スタージスだ。ただ、スタージスはCIAに都合のいいように、アンダーソンにカストロ陰謀説を吹き込んだ可能性がある。

それは、CIAに雇われた女スパイであるマリタ・ロレンツの証言によって明らかになる。スタージスはロレンツに「アンダーソンはわれわれのPRマンだ」と話していたと下院特別調査委員会で証言したのだ。

CIAにとっては、カストロ陰謀説をとってくれる方がありがたかったのだ。CIA内部では、アンダーソンがあまりにも執拗にマフィアを取材するので消してしまおうかどうしようか謀議したことがあるという(元FBI捜査員ゴードン・リディ=ウォーターゲート事件で逮捕=の証言)。結局、暗殺は実行されなかったが、アンダーソンがCIAに殺されずにすんだ理由は、CIAのPRマンとして利用価値があったからだと、筆者は推測している。
(続く)

誰がケネディを殺したか22
▼思惑
トマス・ダウニングが初代委員長を務めた下院暗殺調査特別委員会の最終報告書は、ダイニングの当初の意図に反して、大掛かりな陰謀説を事実上否定するような腰砕けの内容になってしまった。報告書では、車の後方から射撃したオズワルド以外に、車の前方からケネディを狙った暗殺者がいたとみられることや、そのため、ケネディ暗殺には陰謀の可能性があることを公式に明らかにした。しかしながら、同委員会は同時に、ケネディに致命傷を与えたのはオズワルドであるとして、ウォレン報告書の結論を事実上支持したのだ。おそらくここでも、CIAによる証拠隠蔽が行われたのだろう。委員長が替わるたびに、陰謀説でない方向へ誘導された疑いもある。

 CIA内部の反ケネディ派(タカ派)は、ケネディ暗殺直後からカストロが暗殺の背後にいることを臭わせ、口実をつくってキューバ侵攻を果たそうとした。ところが、CIA長官のマコーンやジョンソン大統領はその意図に反して、カストロとケネディ暗殺を結びつけることは危険であると判断、ウォレン委員会の報告書もカストロ陰謀説を一切排除する内容となったのではないだろうか。

 ジョンソンが今後もキューバ侵攻に踏み切るつもりがないことを知ったCIA内部の強硬派は、60年代後半から戦法を変えたようだ。もし、CIAがケネディ暗殺の背後で暗躍していたことが明らかになれば、CIAは確実に解体されるだろう、組織防衛上、ケネディ暗殺とは一切かかわりがなかったことにしなければならない、と。

そこで60年代から70年代にかけて、暗殺にかかわったマフィアや、口を割りそうな工作員や目撃者を次々と殺していった可能性が強い。同時に陰謀説を肯定する下院暗殺調査特別委員会を骨抜きにするため、妨害工作を実施。効果的に証人を抹殺したり情報操作したりするなどして、陰謀説を排除するよう巧みに働きかけた。

その結果が、下院暗殺調査特別委員会の「腰砕けの内容」という最終報告書だったのではないだろうか。
(続く)

誰がケネディを殺したか23

▼暗黒街
 CIA内部のタカ派はどのように暴走していったのか。米議会(上院)が76年に作成したCIAによる「カストロ暗殺計画の年表」などを見ていくと、ピッグス湾事件の失敗とそれに続くケネディの粛清に端を発したとみられるCIA内部の反乱、もしくは内部分裂の過程が垣間見えてくる。

 それらによると、最初のCIAによるカストロ暗殺計画はアイゼンハワー大統領時代の1960年に遡る。その際、万が一ばれたときの対策として、CIAが直接、カストロ暗殺を実行するのではなく、暗黒街の住人とつながりのあるロバート・マヒュー(メモ22参照)を仲介して実行することが決められた。

マヒューは、計画を実行するためにジョン・ロセッリ(メモ23参照)というマフィアを選んだ。そのロセッリは、モモ・サルバトーレ・ジアンカーナ(メモ24参照)とサントス・トラフィカント(メモ25参照)という二人のマフィアのボスに協力を依頼する。
(続く)

(メモ22=ロバート・マヒュー)
 ロバート・マヒューは、カストロ暗殺計画やウォーターゲート事件に深くかかわった、CIAと裏の世界をつなぐ工作員。元FBI捜査官で、1954年にFBIを辞めた後、私立探偵としてCIAの裏の仕事を手伝った。裏の仕事に定評があった上、何かトラブルを起こしたとき、元FBI捜査官という肩書きによって、CIAとの結びつきに煙幕を張ることができる、ということで重宝がられた。
 マフィアを使ったカストロ暗殺計画のほとんどにマヒューが絡んでおり、CIAにジョン・ロセッリらマフィアボスを紹介、その後も仲介役となった。この暗殺計画のころからCIA情報員、ハワード・ハントの右腕となり、後のウォーターゲート事件でも暗躍した。

(メモ23=ジョン・ロセッリ)
 ラスベガスを本拠地とするマフィア。ロバート・マヒューの紹介でCIAのカストロ暗殺計画にかかわった。その関係でロセッリは、シカゴのマフィアボス、サム・ジアンカーナ、フロリダのサントス・トラフィカント、それにニューオーリンズのカルロス・マルセロの3人のマフィアボスと親交を持つようになる。
 ジャック・アンダーソンによると、ロセッリは、マフィアが口封じのためジャック・ルビーに命じてオズワルドを殺させたと語った。しかし、ロセッリ自身も、上院の委員会で第一回目の証言をした後の76年7月、おそらく口封じのために殺される。

(メモ24=モモ・サルバトーレ・ジアンカーナ)
 CIAのカストロ暗殺計画にかかわったシカゴのマフィアボス。通称サム・ギアンカーナ。1960年の大統領選でケネディに有利になるような不正をした疑いや、自分の愛人、ジュディス・キャンベルをケネディ大統領と“共有”していたことでも知られる。
 ジアンカーナは75年、上院の委員会がCIAのカストロ暗殺計画での役割について事情を聴こうとした矢先、自宅の地下室で殺された。後頭部に一発、そして、口封じだということが分かるように口の回りに計6発の銃弾を浴びていた。

(メモ25=サントス・トラフィカント)
 ジアンカーナと同様、CIAのカストロ暗殺計画に深くかかわったフロリダのマフィアボス。リチャード・ニクソンと関係の深い労働組合、ナショナル・ティームスターズ・ユニオンの委員長ジミー・ホッファとマフィアとの間の不正を厳しく取り締まり始めたロバート・ケネディ司法長官に怒り「あいつ(ジョン・F・ケネディ)の弟のホッファたたきを見たか? やつはこの種の関係がデリケートな問題であるということを知らないんだ。覚えておけよ。やつ、ジョン・F・ケネディは大変な目に遭う。やつはこれから起きようとしていることを食らうだろう。やつは撃たれるんだ」とケネディ暗殺を予言したとされているが、下院特別委員会では「そんなことは言ったことはない」と完全否定した。
 これに関連して、同様にロバート・ケネディによるマフィア取り締まり強化に辟易したニューオーリンズのマフィアボス、カルロス・マルセロは、ロバート・ケネディは犬(ジョン・F・ケネディ)の尻尾であるとした上で「犬の尻尾を止めるには、犬の頭を切り落とすことだ」と発言した、とされている。マルセロ自身61年に、ロバート・ケネディの命令により国外追放という屈辱を味わっており、ケネディ兄弟を暗殺する動機を十分に持っていた。

誰がケネディを殺したか24

▼暗黙と粛清
 CIA側でマヒューと接触をする役目は、リチャード・ビッセル計画局次長(メモ26参照)の意向を受けたシェフィールド・エドワーズ安全保障担当部長と、その部下のジェームズ・オコネルが受け持った。ビッセルとエドワーズは60年9月中旬には、アレン・ダレスCIA長官とチャールズ・キャベル副長官(メモ27参照)にマフィアを使ったカストロ政権転覆計画を説明。ビッセルは、ダレスが暗殺計画を承認したと理解する。

 しかし、61年4月のピッグス湾事件の大失態後、CIAに対する風当たりが厳しくなる。ケネディは、ダレス長官とキャベル副長官を相次いで更迭。ところが、CIAは61年9月、ダレス長官の後任に決まったマコーンに対し、対キューバ作戦を説明するが、過去を含め現在進行中のカストロ暗殺計画については一切、触れず、マフィアを使っていることも知らせなかった。62年4月に副長官に就任したカーターに対しても、同様に暗殺計画は知らせた形跡はない。

 ピッグス湾事件で、ケネディにしきりに空爆を進言したビッセルもケネディに“粛清”される。61年10月、ケネディ大統領とロバート・ケネディ司法長官からカストロ政権転覆に失敗したことで激しく責められたビッセルは、カリブ海諸国担当のサム・ハルパンらに、手段は一切問わないからカストロを始末しろと命令するが、後に更迭され、後任にはリチャード・ヘルムズが就任する。
(続く)

(メモ26=リチャード・ビッセル)
 ピッグス湾事件、マフィアを使ったカストロ暗殺計画を含むカストロ政権転覆計画に深く携わったCIAの責任者の一人。ニクソンと亡命キューバ人との密約や、キューバのミサイル基地問題の真相を知る数少ない関係者の一人とみられる。ピッグス湾事件では、ケネディに空爆を懇願した。大失敗に終わった同事件の後、責任を取らされ、アレン・ダレス長官、チャールズ・キャベル副長官らとともに首になった。ビッセルの後任には、後に長官まで出世するリチャード・ヘルムズが就いた。

誰がケネディを殺したか25

▼ウソと無視
 やがて62年5月になると、CIA内部の分裂は、より深刻になる。糸が切れた凧のように、コントロール不能となったCIA強硬派が国際政治の嵐の中を暴走していくのだ。

同月7日、ロバート・ケネディ司法長官の要請で、渋々マフィアを使ったカストロ暗殺計画について説明したエドワーズらは、ここでロバート・ケネディ司法長官に「暗殺計画はもう終わりました」と、ウソをつく。ケネディ長官は「私に知らせること無しに、今後一切、マフィアを使った作戦は認めない」と命令するが、エドワーズはこの命令を無視。その頃、マフィアを使った裏の仕事をエドワーズから引き継ぎ、62年1月から「タスク・フォース・W」という対カストロ工作チームのリーダーになっていたウィリアム・ハーヴィー(メモ27参照)に作戦中止命令を伝えなかった。

逆にエドワーズらは5月14日、マコーンCIA長官には暗殺計画のことは一切、報告しないよう画策。後にニクソン政権下でCIA長官として活躍するヘルムズも長官には伝えないことで合意する。エドワーズは「部下にはロセッリというマフィアを使った計画はすべて中止するように命じた」とする実質的に偽りのメモを作成。同時にロバート・ケネディ長官に対し、5月7日の説明をまとめたメモを送付した。実質的に何の意味もないメモだ。もちろんエドワーズやハーヴィーにとっては、ロセッリを使った暗殺計画が継続していることは暗黙の了解だった。

 こうしてCIAの組織の一部は暴走を始めたのだ。自分たちで都合のいいように長官の命令を解釈、長官にはウソの報告書を提出し、そして独自の作戦をかってに実行してしまう。62年6月には、ロセッリの説明によると、“ヒットマン3人”がキューバに送り込まれる。9月7日と11日、ハーヴィーはマイアミでロセッリに会い、暗殺計画の進展具合についての報告を受ける。ハーヴィーは「計画はどうせ成功しないと思った」という理由から、暗殺計画に元々反対しているマコーン長官にこのことは一切報告していない。
(続く)

(メモ27=ウイリアム・ハーヴィー)
 1961年1月、リチャード・ビッセル計画局次長から他国の首脳暗殺をしてもよいというお墨付き(殺しのライセンス)をもらい、シェフィールド・エドワーズの後を継ぎ、CIAによるカストロ暗殺計画を担当。マコーン長官がカストロ暗殺に反対していたにもかかわらず、長官に報告せずにマフィアを使った暗殺計画を進めた。
 ハーヴィーは太っていたため、飛行機はいつもファーストクラス。よく飲み、大声を出すことで知られた。拳銃をいつも携行、レストランでは上着を脱ぐため、拳銃が他の客に丸見えになっていたという。また、ハーヴィーはFBIからCIAに鞍替えした異色の経歴を持つため、フーバーFBI長官は、ハーヴィーのことをよく思っていなかった。

誰がケネディを殺したか26

▼続行
 一方、更迭前のビッセルから方法を問わないからカストロを始末しろと言われたハルパンは63年1月、ハーヴィーに替わって「タスク・フォース・W」の指揮官になったデスモンド・フィッツジェラルドとカストロ暗殺の方法などについて協議するようになる。

 ハーヴィーは63年1月まで、ロセッリら裏の人間を使った暗殺計画を依然として続けていたが、計画がいずれも失敗したため、暗殺計画の断念をロセッリに伝える。しかし、ロセッリはそのことを“協力者”に伝えない。

 63年8月16日、CIAとマフィアの関係を報じた新聞を見たマコーン長官は、ヘルムズに関係を質す。ヘルムズはエドワーズが以前、作成した偽りの報告書のコピーをマコーンに送り、そのような作戦はとっくの昔に中止されたと報告。

 その間、ハーヴィーの「タスク・フォース・W」を引き継いだフィッツジェラルドは、組織名を「スペシャル・アフェアーズ・スタッフ」に変えて、反カストロ派のキューバ人を使ったカストロ暗殺計画を実行に移そうとしていた。この計画は、実にケネディ暗殺の当日まで続けられ、まさにその日に、フィッツジェラルドはパリでカストロ暗殺用の道具をキューバ人の反カストロ分子、ロランド・キュベーラ(暗号名・アムラッシュ、メモ29参照)に手渡している。しかも、CIA公式文書では、ケネディ暗殺を機にアムラッシュによる計画は変更され、CIAはアムラッシュとの関係を絶ったとされているが、その後も、少なくとも65年6月まで、CIAはアムラッシュの暗殺計画を支援し続けていた。

 リチャード・ヘルムズが66年、ディーン・ラスク国務長官に送ったメモによると、アムラッシュとの関係はあくまでも情報収集であるとした上で「CIAはアムラッシュの暗殺計画には何ら関与していないし、計画を支援したこともない」ことになっている。しかし、ヘルムズは後に、議会の調査に対し、このメモは“不正確”だったことをやっと認めている。
(続く)

誰がケネディを殺したか27

▼反逆
 これら以外にもCIA内部の暴走を臭わせる出来事は、数多くある。たとえば、ピッグス湾事件後、CIAへの不信感からケネディ大統領が、国防省、国務省、CIAの反カストロ計画(暗号名・マングース)を調整するために設置した特別グループの中でも、マングースを担当するCIAの「タスク・フォース・W」は、自ら手掛けているマフィアを使ったカストロ暗殺計画については何の報告もしていない。63年3月、反カストロ分子がハバナのソ連船を攻撃した際、CIAはケネディ政権の意志に反して、この攻撃を支援したことが分かっている。

 CIAが認め、公にしている作戦だけで、これだけCIAが暴走していく過程がうかがえるのだ。当然、今でも極秘事項となっている作戦(メモ30参照)もあるわけで、そういう作戦では、CIAがどこまで反逆・暴走したか、想像することもできない。

 CIAに対するチェックが効かない、こうした仕組みの中では、CIAは独自の判断の下で現政権とは異なる政策を実行できる。

話を60年のニクソンによる密約に戻してみよう。この密約に沿ったニクソン大統領の命令が、ケネディ政権になっても、そのまま有効だったことは明白だ。しかも、その時の手段と目的は、新政権とは独立して、新政権の承認を得ないまま、かってに動き出す。ピッグス湾事件で、CIAはニクソン前副大統領の密約に沿って、ケネディの知らないところで、反カストロ分子左派をフロリダで監禁、コーリー政権誕生の手助けをしようとしたことが、その例だ(メモ31参照)。

 これは、実質的に60年のニクソンの命令が、そのまま一人歩きし、ケネディの命令を超越して存在していたことにならないか。つまり、新政権に止めろと言われない限り、CIAは前政権の命令を遂行し続けるわけだ。だが、前政権の作戦を新政権に報告しなければ、新政権の政策担当者は、どうやって知らされていない作戦の中止を命令できるのか。
(続く)

(メモ30=公表されない極秘の作戦)
 1969年にCIAを辞めたヴィクター・マルチェッティによると、CIAは自分の悪行がもはや隠し通せないと知ると、真実のほんの一部だけを公表して、国民やマスコミの関心をそちらに引きつけ、CIAに致命傷を与えるような情報を隠すリミテッド・ハングアウト(制限された悪の巣窟)という戦略をよくとるのだという。一種の陽動作戦ともいえるもので、もし、この作戦をカストロ暗殺計画に当てはめると、CIAが、マフィアを使った暗殺計画や「タスク・フォース・W」を公に認めたのは、CIAに決定的打撃を与えるような別の暗殺計画を隠すためだったとも解釈できる。事実、CIAが公表したカストロ暗殺計画には、反カストロ活動ではCIAの第一人者といえるハワード・ハントの名前が主要人物として出てこないのをはじめ、メモ37で述べるオペレーション40という亡命キューバ人を使った暗殺集団の記述もまったくない。公表されていない極秘の作戦が存在したという疑いの根拠はここにある。

(メモ31=反カストロ左派の監禁)
 反カストロ分子がキューバ侵攻をする際、CIAはキューバ国民に評判が良くなかったバティスタ前政権色を薄めるために、左派系反カストロ分子を入れるよう画策していた。しかし、これは右派系反カストロ分子にとっても、当時のニクソン副大統領にとっても、好ましいことではなかった。そこで、1960年の密約ではキューバ上陸が成功した場合には、直ちに左派系分子のリーダーを抹殺することが決まったのだ。このことはコーリー親子が認めていることは先に述べたが、後にケネディにピッグス湾事件の失敗の責任を取らされて解任されたCIAのチャールズ・カベル副長官も知っていたと、CIA工作員、ロバート・マローは証言している。以下にマローらの話をまとめた。
 コーリーから密約を知らされてから間もなく、マローがCIAのマロー担当部員、トレイシー・バーンズに、カベル副長官がいる前で、密約が本当かどうか質したところ、彼らはそれを認めた。
 年が変わって61年、ピッグス湾事件の直前、左派系のキューバ革命前線がキューバ侵攻に参加することが決まった。コーリーは、息子に部下のぺぺ・ピネロ大佐と後にCIAの情報員になったサンチェス・モスケラ大佐に連絡を取り、左派系の参加についてはこちらで処分するので心配する必要がない旨伝えるよう電話している。
 マローはキューバへの侵攻が始まった61年4月17日、バーンズからミロ・カルドーナらキューバ革命前線のリーダーが、CIAの手でフロリダ州のオパ・ロッカで監禁されているとの報告を受けた。バーンズは「侵攻作戦に参加している二人を除いて、カルドーナとその仲間はここCIAの基地で武装したガードに監視されながら監禁された。馬鹿なやつらだ。キューバ侵攻が成功すれば、自分たちがどうなるかも知らないで!もし、知っていたら、フィデル・カストロの愛すべき腕から離れることはなかっただろうに」とマローに話した。マローはこれを彼らが抹殺されるのだと理解する。
 2日後の4月19日、監禁されていたキューバ革命前線の一人、トニー・ヴェローナが監視の隙を見つけて、トイレの窓を破って脱走。すぐにホワイトハウスに、怒りに震えながら電話した。ケネディはアーサー・シュレジンジャー・ジュニアらを派遣、監禁されていたキューバ人から事情を聴いた。しかし、彼らも何故監禁されたのか分からなかったので、この時点でもケネディは60年のニクソンらの密約に気付かなかった、という。
 結局、ケネディが第二次空爆を認めなかったこともあり、ピッグス湾事件は大失敗に終わるが、この失敗のお陰で、キューバ革命前線のリーダーたちは殺されずにすんだわけだ。
 ケネディは翌20日、今後のキューバ問題のアドバイスを受けるため、ニクソンをホワイトハウスに呼んだ。ケネディは上陸作戦に関係したキューバ人が作戦で肉親や友人をなくし非常に怒っているとニクソンに伝えた上で、ニクソンの目の前で見境もなく、CIAの作戦担当者の実名を挙げ、なじり、ののしった。勝ち誇ったようなニクソンと失意のどん底にあるケネディ。元々はニクソンとCIAの計画でもあるキューバ侵攻が失敗し、しかもその失敗の一因には、ニクソンの密約を含め旧政権と新政権の間に完全な意志の疎通や引き継ぎがなかったことが関係していることを考えると、何とも皮肉な組み合わせだ。

誰がケネディを殺したか28

▼からくり
 カストロ暗殺計画も政権を超えて水面下で継続していた。このことは、新政権が全く意図しない出来事が起きる可能性が常にあることを意味する。ある日、突然、米国の大統領も知らないまま、他国のリーダーがCIAの陰謀で殺されることも起き得たわけだ。

そうならば、仮に国家の危機を未然に防ぐという使命を担ってきたCIAが、国家安全保障上、正当化されることなら、何をしても許されるという命題を与えられたら、一体、どんなことまでCIAは実行を躊躇しないのだろうか。カストロ転覆計画を自らの決断力のなさで失敗させ、ミサイル危機後も一向にミサイルを撤去しないキューバに対し、何ら有効な対策を採ろうとしない、国家にとっての“危険人物”(メモ32参照)を始末することも躊躇しないのか。

 CIAの暴走の一端を垣間見ると、政権内部に、大統領とは別の独立した作戦遂行の命令系統ができてしまったように思えてならない。同時に、このからくりを理解しない限り、ケネディ暗殺の真相を解明することもできないのだ。

 ケネディ暗殺事件の研究家が落ち込む矛盾は、実は、ここに起因している。キューバ侵攻を実現させるため、カストロをケネディ暗殺に結びつけようとするCIA強硬派・反カストロ分子の勢力と、米ソ大戦を回避するため、カストロの関与を一切否定しようとする、ジョンソン大統領とその命令を受けたFBIの勢力。このために、カストロの関与を示す証拠が出てきたかと思うと、それを打ち消す証拠が出てくる。相矛盾する証拠隠滅工作が出てくるのはこのためだ(メモ33参照)。

これとは別に、CIAと闇の勢力の関係を隠そうとする政府全体の思惑と、ケネディ暗殺を未然に防げなかったFBIの責任逃れの工作が絡み合う。この相反する目的を持つ権力の存在と、組織を是が非でも守ろうとするCIAとFBIの伝統的な工作が、ケネディ暗殺のミステリーをつくり上げてきたのだ。
(続く)

(メモ32=CIAにとっての危険人物)
 CIAからみて、ケネディ大統領が国家(少なくとも組織)の利益を危うくする危険人物だったとする説を採っているのが、ロバート・マローだ。その一つ目の根拠は、ピッグス湾事件の失敗と、それに続くCIAに対する粛正。粛正の延長線上には、CIAに替わる諜報機関の設立(編注:オペレーション・マングースはその一環)も視野にあったため、CIAは組織弱体化を阻止するため、ケネディに対して必死に抵抗した。二つ目は、ケネディは大統領就任早々、キューバでミサイル基地が建設中であるというCIAの報告を受けておきながら、62年の議会選挙に利用するため、そのことを62年10月まで国民に隠し、選挙の直前に人類を救ったヒーローになるという政治的筋書きを“演出”したこと。米国の安全保障がこの政治的演出のための道具にされる一方で、ケネディは議会内での民主党の基盤を強化するとともに、政敵であるニクソンのカリフォルニア知事選敗退という結果を手に入れた。これは米国の利益をもてあそぶ、背任行為に匹敵するとの考え。第三の根拠は、キューバのミサイル危機後も、実はミサイルが撤去されていないことを知っておきながら、それを容認。逆にソ連の“ミサイル撤去”に応じる形で、トルコの米軍基地からのミサイル撤去を決め、国家安全保障上、米国に多大な不利益をもたらした。マローはこうした理由から、ケネディ政権による自作自演の情報操作と政治的妥協に嫌気がさしたCIAがある時点で、“CIAの敵”であるケネディの抹殺を実行に移したとみている。

(メモ33=証拠隠滅工作)
 ここでは一つ一つ検証することはしないが、CIA・反カストロ分子の隠滅工作はケネディ暗殺前に始まり、ジョンソン・FBIの隠滅工作は暗殺後に始まった、と簡潔に表現することもできる。
 ジョンソン・FBIの工作は、フーバー長官がジョンソンの部下、ウォルター・ジェンキンスとの電話の会話で意味じくも漏らしたように「カゼンバック氏(司法副長官)と同様、私が気にしているのは、オズワルドが真の犯人であると国民に信じ込ませるために何かを発表するということ」だった。そのカゼンバック副長官はさらにはっきりと「オズワルドの動機に関する憶測は断ち切らなければならない。我々は共産主義の陰謀だとかいう考えをやり込めるための根拠を持つべきだ」と語っている。そういう政府の意志でできあがったのが、あのウォレン委員会の報告書だった。
 CIA・反カストロ分子の工作は、オズワルドをいかに共産主義、特にカストロと結びつけるかだった。オズワルドが、わざとらしくカストロ賛美のパンフレットを配ったり、オズワルドと名乗る男がメキシコのキューバ大使館かソ連大使館で「ケネディを殺してやる」と叫んだりした工作がこれに当たる。あるいは、オズワルドがソ連の女性と結婚したこと自体もCIAのよる陰謀の一環なのかもしれない。


© Rakuten Group, Inc.